若い頃のわたしは、文章に「自分らしさをどう練り込むか」ということに、恥ずかしながら執着しておりました。
ここでいう「文章」とはオファーをいただいた仕事のこと。
フリーペーパーの記事であったり、企業等のウェブサイトやパンフレットなどのキャッチコピーであったり、を指します。
そして「自分らしさ」とは、自分の主張であったり視点であったり、自分ぽいカラーや雰囲気のこと。
発注をいただく文章というのは、当たり前なのですが、自分の媒体でもないし自分が所有する作品でもありません。
ライターではあっても作家ではないわけで、自身のブログやエッセイかのように、どこか勘違いしてたんですよねw
書き手に求められるのは、取材対象を生かすこと。
その人やサービスの魅力を最大限に引き出し、伝えるものであること。
売れるための基盤となる「道具」となるものであること、が大半です。
つまり、書くのは自分だけれども、意図するところは自分の承認欲求や自己実現ではないのだから、ベクトルは自分に向いてはいけません。
その文章の目的意図からずれること。
それが最もうまくないことであって、自分らしさに、第一に意識が向いているようではあかんのでした。
それに、学生時代のレポートのように、自分の思ったこと感じたことをにじませようと意識すると、たいがい文字数が多くなりすぎるか、うまく文章同士がまとまりません。
何に主眼を置いているのかがわからない文章になる(そりゃそうだ)。
何か「臭み」が漂う感じになってしまうのです。
たまにトレーニングとして、こんなことをしていました。
いいな、と思うコラムや人物紹介の記事を切り取り、その限られた文字数の中に「筆者の考えはどれぐらい書かれているのか?」とマーカーで線を引いてみるんです。
すると「あれ、こんなもんか?」というくらい、相当に少なくあっさりしている。
そういう文章がスッと読みやすいんです。
押し付けがましくなく、偏りがないというか。
客観性:主観性、そのバランスが9:1くらいで構成されているもんだなと感じるものでした。
とは言いつつも、どこかしら自分らしさをにじませたいという気持ちが出てきてしまうのも、よくわかります。
ファクトだけになってしまうと新聞記事と変わらなくなってしまい、「読み物」としてはおもしろくなくなるのでは?
あたたかみやなめらかさ、人間味が感じられなくなるのでは? という危機感もあるんですよね。
ただ「自分らしさ」というのは、無理に練り込もうとしなくても「匂い」のようにそこはかとなく、十分に立ちのぼってくるものではないかと今は思うのです。
単語の選び方の1つ、言い回しの1つ。
文章の展開の仕方、順番。
さらには句読点の位置。
ひらがなとカタカナ漢字の混ざり具合。
口語調なのか文学調なのか。
そんな無意識で選んでいる部分にこそ、「自分らしさ」というのは隠せないほど透けて見えてきます。
表現しようと意識すればするほど、その意は皮肉にも「えぐみ」となってしまいがちですが、逆に、発注者や読者に対する姿勢やあり方こそが「らしさ」となってにじんでくるのです。
なので、「文章に、自分らしさをどう表現するか?」
そこへの結論を言うとすれば「あえて、それを表現しようと意識しないこと」だと思います。
どうしても「自分らしさ」を意識してしまうときは、発注者の意図から逸れない範囲で、ほんの数滴たらす程度。
オーバーしないさじ加減で、引き算気味で、と唱えることです。
経験上、かすかすぎて分からないくらいでちょうどよい気がします。
(すごく感覚的、抽象的な話になってしまうのですが…)
お菓子づくりのときに香りづけでしのばせる「バニラエッセンス」のように。
そんな感覚を意識するといいように思います。
